▼ 愛知県立芸術大学

演出 / 堀口文成先生 インタビュー

堀口先生には、長年演出の先生としてご指導いただいています。
昔と今の芸祭オペラを知る堀口先生だからこそ伺える、オペラの今昔のいろんなお話をお聞きしました。

堀口 文成

1972年、演出家としてフリーになる。演劇、ミュージカル、オペラ等の演出を手がける。演出活動「コシ・ファン・トゥッテ」「ヘンゼルとグレーテル」「ディドとエネアス」「蝶々夫人」「魔笛」「零媒」「天国と地獄」「あまんじゃくとうりこひめ」他。名古屋二期会、静岡オペラ会、静岡室内歌劇西日本オペラ協会、三重新音楽家協会、滋賀創作オペラフェスティバルなど、現在西日本を中心に、東京、静岡、長野で活躍中。1975年より、愛知県立芸術大学有志のオペラに携わる。

芸祭オペラ誕生のきっかけは?

——当時声楽科の男子学生(7〜8期生)が、僕のやっている舞台にスタッフとして入ってくれたのが最初の出会い。その後、彼らが学内でやっていた演劇サークルやアンサンブル等のアドバイスをしたのがきっかけ。「オペラを一本創ってみたい!」という彼らの熱意はすごかった。それに思わず乗っかっちゃったわけだ(笑)

芸祭オペラで大変なことは?

——ありすぎて困る。学業、学校行事の合間の限られた時間。公演予算はメンバーの積立金。何より、失礼だけど、奏楽堂はオペラを上演するには最悪の環境だということ。例えば照明などは、はしご車を使って一台一台取り付けなければ行けない。当時は暗幕すらなかったから、外側から黒のゴミ袋をガムテープで貼っていたんだよ。舞台経験の無い学生たちに、ゼロから教えながら創っていった。美術科の学生は結構ガンコだったから、僕も気遣った。…愚痴っぽくなっちゃったけど、ここまで続けてこられたのも学生たちの情熱かな。僕も昔は若かったしね(笑)

当時と今と比べて変わったことは?

——芸オペとは直接関係ないけど、まず、芸祭といえばとにかく寒かった。芸祭が近づくと冬支度を始めるというのが恒例だった。温暖化を実感するね。次に、当時の学生は金が無かった。僕を送迎してくれた車は、左ドアとバックミラーにガムテープで修理がしてあったから、乗り降りは運転席だった。それと、当時、酔っぱらった男性学生を介抱するのが女子学生だったけど、最近は、酔っぱらった女子学生を男子学生が介抱する。男子学生がリーダーシップをとっていたのが、いつのまにか女子学生に取って代わった。草食男子か、時代の流れだよね。「男よ戦え!」と声を大にして言いたいよ。

当時と今と比べて変わったことは?

——心の原点みたいなものかな。芸祭オペラは文字通り手づくり。舞台というのは手づくりが基本だからね。決して好ましいとは言えない条件の中で、少しでもいいものをつくるためには、皆でアイディアを出し、方法を徹底的に考える。学生がやっていることだから適当でいいや、なんて一度も思ったことはない。若いエネルギーに、僕も真正面からぶつかっていく。それがいいんだ。それが好きなんだよ、きっと。何年か経って、卒業生と偶然に会う。チラシ等を見て来てくれた人、オーディションでばったり、なんてこともあった。全国のいろんなところでだよ。懐かしかった。嬉しかった。そういえば、芸祭オペラで初めてオペラというものを観た、というお客様が結構いらっしゃった。「是非また来たい!」、そんな声を聞いたときは、最高に嬉しいよね。これは僕らの凄い財産だよ。そういうひとたちを絶対忘れちゃ行けない。これも永く続けてきたからだろうね。もし最後の舞 台、何を演出したいかと問われたら、「芸祭オペラ」って答えるよ。演技でもないか(笑)。

芸祭オペラ、それは参加した仲間たちの、汗と情熱と祈りの結晶だ!